絶対少年(田菜編)はすごくよかった

延々と録りだめていたのを一気に見る。自律的に一気に見たというよりは、見だしたらとまらなくなったというほうが正しい。
夏で田舎という舞台設定とキャラデザがストライクゾーンなのは確かだがそれだけではなく。登場人物の表情が動くのがいちいち楽しくて、そのたびにリプレイして見直す。…楽しい。
セリフを抑えて表情で語らせる漫画が好きなのはとうに承知だったが、アニメでこういうふうに楽しいのは初めてかも。最後が駆け足だったのがちょっと心残りだけど、堪能しました。殿堂入り。

円環少女(1)(長谷敏司)

倉本きずな万歳。

閑話休題
出だしからかなり読みにくくて難渋する。見慣れぬ概念と世界観がぶんぶん飛び交って、ついていくのがやっとの有様。中盤ようやくユーザーフレンドリーになってきたと思ったら、クライマックスでまた全開。作者は読者(つうか俺)の理解力を過大評価してるんじゃないだろうか。
登場人物達に情が移ってからの、彼ら彼女ら全員ピンチの終盤は読み進むのが怖かった。既読の2冊(「楽園」「フリーダの世界」)からけっこう容赦ないことする作者だという印象があったので。最後にどうなったかは無論伏せるが。
しかし、なんというか、その、血みどろラブコメというか。常識的に見て無理があるんじゃないかとかみんなついてくるんだろうかとかあれこれ心配だが、個人的にはこういうのもなかなか乙なものというか。一件落着すっきり爽快、ではない読後感は決して嫌いではない。

久しぶりの新作で見てくれもだいぶ違うが、コアは楽園やフリーダと変わっていない。と思う。穏やかな普通の幸せと、血みどろで過酷な現実の衝突。なんにせよ、新しいのが読めてよかった、3年も待たされてもうあかんかと思ってました。次はもっと早めに。

自閉症と八坂あろえのこと

自閉症について根本的に欠けている知識を補うべく、いくらかサイトを回ってみた。

SWAN SONG」における八坂あろえの描写が、自閉症の概念から大きく外れてはいないことが確認できる。であるなら、架空の存在でありながら、あろえはおれの初めて認識した「生き生きとした自閉症の人」ということになる。

あろえという具体例を知ることによって気づいたこと。それは、通勤電車の中でときおり見かける「変な人たち」についてのことだ。
車内放送を文言も口調も極めて正確にまねる人、「すみませんどいてください」を繰り返しながら満員電車をかき分け座席の人を立たせて自分が座る人、一度だけ見た、袋いっぱいの缶コーヒーをにこにこしながら配って回る人。一番ポピュラーな、何度も大きな声で叫ぶ人。おれのおぼつかない知識では彼らの誰が自閉症で誰がそうでないかは判断できない、でも彼らのうちの幾人かは自閉症だったのだろうと思う。あれが自閉症だったのかと。
むろんあろえは架空の存在でなおかつ一例でしかない。そのことを心に留めつつ、理解への足がかりとさせてもらおうと思う。

話をゲームのほうに戻してもうひとつ。ゲーム中、主人公(と言っていいだろう)・尼子司の言動にはどこか「普通でなさ」が漂っているが、それにいてこちらのblogが的確に読み解いている。それが作意かまたは唯一解かはわからないが、司とあろえが同じ環の中にいるという解釈は、最低限でも成立はするだろう。
ラスト近くでただ一度だけ、司があろえのことを「僕の友達」と表現する場面がある。もしかしたら、と妄想する。このゲームにおいて、この言葉の意味するところは、最初に感じた以上のものがあるかもしれない。それは司とあろえが同じ環の中だというような単純な話ではなく。

パッケージにもタイトル画面にもあろえ一人を描いたその意図を、あらためて考える。それは決してデザイン上の理由なんかじゃないんだろうと思う。

SWAN SONG(スワン・ソング)(Le.Chocolat/フライングシャイン)

凄い、とは思うのよ。間違いなく。

スタート直後に大地震に遭い、吹雪の中を歩かされ、自閉症の少女・あろえとの出会い。幾人かと一緒になり、ささやかな安息の日々、それを捨てての避難所への合流。しばし落ち着いた日々、やがて覆う不安と窮乏と敵意と狂気、死、死、死、死、死、おびただしい死。ご都合主義とほぼ全ての救いを打ち捨ててての終局。
ラストがこれしかない、ということはないだろう。そう思い、そして探し当てた別のエンディングは、でも精度も密度も最初のものよりは大きく劣るものでしかなかった。おれは基本的に登場人物には幸せになってほしい甘ちゃんだが、いくらなんでもこちらをよしとはしない。

つまり、「マルチシナリオ・マルチエンディング」という惹句とは異なり、このゲームのエンディングは、最初にたどり着いた最果てのひとつだけしかない。スタートからその終局までの道のりはごく自然で、物語にも登場人物にも無茶はさせていない。現実世界の街でこういう破局が起きたとき、こういう結末に至る可能性は、もしかしたら高いのかもしれない。

でも、おれが読みたいのはこれじゃないのだよ。人類はどうやら伸びしろを失い、世界は概ねどうしようもなく、毎日おどろくほど多くの人が争いの中で死んでいる、それはいまさら言われなくても知っている。だからこそ、絶望的な状況で、それでもぎりぎりどうにか生きていく彼らの物語が、つけたしみたいなのではなくちゃんとしたそれが読みたいのだ。甘ちゃんと言わば言え。

あろえの手による石像が最後に立った、そのことをもって救いと見なす人もいるだろう。でもおれは、あろえがこれからもっといろんなことをするのを見たいのだ。救済なんて要らない。続く物語が見たい。

でも、凄いと思う。一人でも多く、届くべき人の手に届いてほしいと思う。エロシーンぶったぎってもどうせ18禁だろうけど、コンシューマ移植を夢想する。

サヨナラ1塁ゴロ、ならず

30日のソフトバンク対ロッテ戦。7対7の同点で9回裏1死3塁、打者松中の打球は1塁ゴロ。3塁走者川崎は本塁突入。ファースト福浦は本塁送球をあきらめ、(おそらく無意識に)1塁を踏む。その後に川崎がホームイン。
「サヨナラ1塁ゴロだ!珍しい」と思ったのだが。

翌日の試合記録では、松中の最終打席は1塁内野安打となってた。なんでも「このような形でサヨナラ勝ちした場合、最後の打者の記録は公式記録員が判断することになっており、一塁への内野安打とされた」(日刊スポーツ)そうな。
えー?と思い野球規則を調べたがそういう記述は見つからず。ただ、最後の福浦のプレーは明らかに勝敗に関係のないプレイだったこと、たとえばエラーか安打かの判断においては、どっちかわからんものは打者に有利に記録する原則があることから、記録員はあえて安打としたのかもしれない。勝敗を最後まであきらめなければ福浦は本塁送球してただろうし、そうであれば記録は内野安打で問題なかっただろうから(野選ということはさすがにないでしょう)。

実際に先に1塁踏んでるので、いまいち腑に落ちない気分ではあるんだけど。投手・藤田は何となく投球回数を1/3回損したような形だし。

2週遅れのかみちゅ!第2話

ひとつひとつのシーンがとても楽しい。何度も戻し見してしまった。
たとえば八島様を捜しあぐねた夕暮れの港、四人四様の脚の描き方。一人はうちまた、一人は揃えて、一人はO脚、一人はだらしなく広げて組んで。四人のキャラクターをこういうところまでちゃんと描いてくれてるのがもうなんとも。
表情もよく動いてて、動きすぎてアニメっぽくなくてあんまかわいくない、と感じる人もいるかなとも思う。でも、いいじゃんこういうのも。気持ちいい。
この作画が最後まで保ってくれることを、ともかく祈る。

ThinkPad600復活

ジャンクで拾ったのは2年前だったか3年前だったか。メインバッテリを替え、BIOSをアップデートし、起動しなくなったので今回バックアップバッテリを交換、ついでにHDDも交換してw2kをインストール。ようやくまともなPCとして動くようになった。
何に使うという用途も特にないのだが、キーボードの打ち心地は捨てがたいので。まとまった文章を書くときがあれば活用しようと思う。