自閉症と八坂あろえのこと

自閉症について根本的に欠けている知識を補うべく、いくらかサイトを回ってみた。

SWAN SONG」における八坂あろえの描写が、自閉症の概念から大きく外れてはいないことが確認できる。であるなら、架空の存在でありながら、あろえはおれの初めて認識した「生き生きとした自閉症の人」ということになる。

あろえという具体例を知ることによって気づいたこと。それは、通勤電車の中でときおり見かける「変な人たち」についてのことだ。
車内放送を文言も口調も極めて正確にまねる人、「すみませんどいてください」を繰り返しながら満員電車をかき分け座席の人を立たせて自分が座る人、一度だけ見た、袋いっぱいの缶コーヒーをにこにこしながら配って回る人。一番ポピュラーな、何度も大きな声で叫ぶ人。おれのおぼつかない知識では彼らの誰が自閉症で誰がそうでないかは判断できない、でも彼らのうちの幾人かは自閉症だったのだろうと思う。あれが自閉症だったのかと。
むろんあろえは架空の存在でなおかつ一例でしかない。そのことを心に留めつつ、理解への足がかりとさせてもらおうと思う。

話をゲームのほうに戻してもうひとつ。ゲーム中、主人公(と言っていいだろう)・尼子司の言動にはどこか「普通でなさ」が漂っているが、それにいてこちらのblogが的確に読み解いている。それが作意かまたは唯一解かはわからないが、司とあろえが同じ環の中にいるという解釈は、最低限でも成立はするだろう。
ラスト近くでただ一度だけ、司があろえのことを「僕の友達」と表現する場面がある。もしかしたら、と妄想する。このゲームにおいて、この言葉の意味するところは、最初に感じた以上のものがあるかもしれない。それは司とあろえが同じ環の中だというような単純な話ではなく。

パッケージにもタイトル画面にもあろえ一人を描いたその意図を、あらためて考える。それは決してデザイン上の理由なんかじゃないんだろうと思う。